「AI を入れたい、ただどの業務に当てるかが分からない」
士業事務所の代表と話していると、繰り返し聞かれるテーマがあります。「AI を導入したい。ただ、自所のどの業務に当てればよいのか判断がつかない」というご相談です。メディアや SNS では「議事録自動化」「契約書レビュー」「顧客対応の自動返信」といった事例が華やかに紹介されています。デモを見ると便利そうに見えますが、自所に当てはめようとした瞬間に手が止まる、という観察があります。
止まる理由はシンプルで、「どの業務に AI を当てると、どれくらいの効果が、どれくらいのリスクと引き換えに得られるか」が事前に整理されていないところにあります。便利そうな業務から手を付けると、後で「個人情報を入れてよかったのか」「最終チェックは誰がやるのか」「もとの業務フローが回らなくなった」といった問題に直面しやすくなります。
本稿では、業務ヒアリングを起点に、AI 化対象を「頻度 × 定型度 × 守秘要件」の3軸でスコアリングして選ぶ方法を整理します。
「便利そう」から始めると陥りやすい3つの失敗
AI 導入の初期段階で観察される失敗パターンを、3つに分けて見ていきます。
頻度が低い業務から手を付けるケースです。年に数回しか発生しない手続きを AI 化しても、習熟する前に次の機会が来てしまい、知見が積み上がりません。プロンプトや業務フローのチューニングは反復で磨かれるため、回数が出ない業務は投資対効果が出にくい構造になっています。
非定型な判断を含む業務から手を付けるケースです。「顧問先からの相談メールに返信する」業務は一見定型に見えますが、実際には相手の業種・関係性・過去の経緯・税務上のリスクなど、複数の文脈を踏まえた判断が含まれています。これを AI に任せると、もっともらしいものの事務所のスタンスと合わない返答が生成され、レビューに逆に時間がかかるというケースが観察されます。
守秘要件が高い業務から手を付けるケースです。個人情報や顧問先の機微情報を含む業務は、AI に入れる前に契約上の制約・業法上の守秘義務・運用ルールの整備が必要になります。これらを後回しにして無料の生成 AI に投入してしまうと、後から修正コストの大きい問題に発展しかねません。所管官庁からも、生成 AI サービスへの個人情報入力にあたっては利用目的の達成に必要な範囲かを事前に確認するよう注意喚起が出ていますので、公式情報を確認しておきたいところです。
3つの失敗は、「便利そう」という直感で対象を選んだ結果として起きやすいという共通点を持っています。事前に評価軸を用意しておくことで、ある程度回避できます。
業務棚卸しの4ステップ
スコアリングに入る前に、まず棚卸しが必要になります。実務では次の順序で進めるとスムーズです。
ステップ1: 業務一覧の作成。所長・スタッフ・パートに、1週間〜1か月の業務を時系列で書き出してもらいます。完璧を目指す必要はなく、「思い出した順」で30〜50項目を出すことを目標にします。粒度は「顧問先 A 社の月次試算表チェック」のように、1業務1〜3時間程度に揃えると後の評価がしやすくなります。
ステップ2: 工数の見積もり。各業務に対し、「1回あたりの所要時間」と「月間の発生回数」を割り振ります。正確な計測ではなく、感覚値で構いません。月間工数(時間 × 回数)が大きい業務が、AI 化の費用対効果が出やすい候補になります。
ステップ3: 守秘要件の分類。各業務を「公開情報のみ」「社内情報を含む」「顧問先の個人情報を含む」「機微情報(健康情報・財務情報など)を含む」の4段階で分類します。この段階で、無料の生成 AI に入れてはいけない業務がほぼ可視化されます。
ステップ4: AI 適性の評価。残った業務に対し、「入力と出力の形式が定まっているか」「過去の事例・テンプレートが豊富にあるか」「最終チェックを人間が実施しやすいか」を評価します。3つすべて Yes になる業務が、最初の AI 化対象として有力になります。
この棚卸しは1日で終わるものではありません。所長と現場スタッフの認識ずれを言語化する作業でもあるため、2〜4週間程度かけて進めるケースが多いと感じています。
3軸スコアリング — 頻度 × 定型度 × 守秘要件
棚卸しで残った業務に対し、3軸でスコアを付けて優先度を決めていきます。
| 軸 | 意味 | 高スコアの目安 |
|---|---|---|
| 頻度 | 月間の発生回数 | 月10回以上、または週1回以上 |
| 定型度 | 入出力の形式が決まっているか・判断要素が少ないか | 入力フォーマットと出力テンプレートが既に存在する |
| 守秘要件 | 取り扱う情報の機微度(低いほどAI化が容易) | 公開情報・社内一般情報のみ |
各軸を1〜5点で評価し、合計点が高い業務から手を付けるのが基本パターンになります。例として次のような並びになります。
- 公開資料の要約・社内勉強会用のたたき台作成 → 頻度5・定型度5・守秘要件5(合計15)
- 月次顧問通信の下書き作成(顧問先固有情報なし) → 頻度5・定型度4・守秘要件4(合計13)
- 個人情報を含む申請書類のドラフト作成 → 頻度4・定型度4・守秘要件1(合計9、要設計)
- 利益相反チェック・難易度の高い判断業務 → 頻度2・定型度1・守秘要件1(合計4、AI 化非推奨)
合計点が低い業務は、AI 化の優先度を下げるか、外部の伴走支援を入れて慎重に設計する領域と整理しておきたい場面です。「スコアが低い= AI 化しない」ではなく、「スコアが低い=自所単独では難しい」と読むほうが実態に合うと考えています。
スコアリングの注意点として、3軸のうち守秘要件は他の2軸とトレードオフしないという性質があります。頻度と定型度が高くても、守秘要件が低い(=機微情報を扱う)業務は、設計を間違えると修正コストが大きくなります。守秘要件が低い業務は、必ずデータの取り扱い・契約・運用ルールをセットで設計する必要があります。
士業別の最初の検討候補
3軸スコアの観点から、士業別に「最初に検討しやすい候補」を整理します。あくまで一般論であり、事務所ごとに状況は異なる点にご留意ください。
税理士事務所。月次顧問通信・所長コラムの下書き作成(顧問先固有情報なし)、税制改正・通達のサマリ作成(公開情報のみ)、社内マニュアル・チェックリストの整備、採用ページ・採用面接案内文のたたき台などが挙げられます。
社会保険労務士事務所。就業規則・各種規程の改訂たたき台(顧問先固有情報なし、最終チェックは社労士)、助成金・補助金制度のサマリ作成(公開情報)、顧問先向けの労務トピックス配信用ドラフトなどが候補になります。
行政書士事務所。申請書類の記載例・FAQ の整備、業務マニュアル・チェックリストの作成、公開情報を元にした業界レポートのたたき台などが取り組みやすい領域です。
司法書士事務所。不動産登記・商業登記の社内マニュアル整備、一般的な相続手続きの説明文書のたたき台、セミナー資料の構成案作成などが候補に挙がります。
弁護士事務所。判例・条文の検索結果サマリ(最終確認は弁護士)、セミナー資料・記事のたたき台、社内マニュアル・新人向け研修資料の整備などから始めるケースが多くなります。
いずれの士業でも、共通して「顧問先・依頼者の固有情報を入れずに済む業務」「最終チェックを専門家が実施できる業務」「テンプレート化が進んでいる業務」から始めるのが安全だと考えています。
セキュリティ・コンプライアンスで確認しておく論点
AI 化対象を選ぶ段階で、必ず確認しておきたい論点を整理します。
- 守秘義務: 弁護士法・税理士法・社労士法・行政書士法・司法書士法は、それぞれ守秘義務を課しています。AI に業務情報を投げる前に、「契約上の制約に違反しないか」「依頼者の同意は必要か」を確認する必要があります
- 個人情報の入力: 所管官庁の注意喚起では、生成 AI サービスへの個人情報入力にあたって、利用目的の達成に必要な範囲かを事前に確認するよう求められています。公式情報を確認のうえ、自所のルールに反映しておきたい論点です
- データの学習利用: 使用する AI サービスが、入力データを学習に利用しない契約(オプトアウト・エンタープライズプラン等)になっているかを確認する必要があります
- 権限とアカウント設計: 誰が AI を使えるか、共有アカウントを使っていないか、退職時のアカウント停止フローが整備されているか
- ログ・監査: AI への入力プロンプトと生成結果が、後から追跡できる仕組みになっているか
- 最終チェック責任: AI の出力をそのまま顧問先に渡さず、誰が責任を持ってレビューするかをワークフローに組み込んでいるか
これらの論点を最初の業務選定の段階で確認することで、後から運用ルールを後付けする手戻りを減らせる、という観察があります。
評価結果を社内で揃えるためのチェック項目
業務ヒアリングから AI 化対象を選ぶ際の、最低限の確認項目をまとめます。
- 業務一覧を30項目以上書き出した
- 各業務に1回あたりの所要時間と月間回数を割り振った
- 各業務の守秘要件(公開情報/社内情報/個人情報/機微情報)を分類した
- 頻度 × 定型度 × 守秘要件の3軸でスコアを付けた
- 高スコアの業務から優先順位を決めた
- 使用予定の AI サービスが学習にデータを使わない契約か確認した
- 所長・現場・IT 担当の三者で評価結果を共有した
自所への適用ステップ
ここまでの内容を、自所に当てはめる3ステップに落とし込みます。
ステップ1: 1週間で30項目の業務棚卸しを実施する。完璧を狙わず、「思い出した順」で書き出します。所長・現場・パートの3視点を必ず混ぜます。1視点だけで作ると、業務の見落としがほぼ必ず発生してしまいます。
ステップ2: 守秘要件で4段階に振り分け、最上位(公開情報のみ)に振り分けられた業務だけを AI 化候補にする。最初の3か月はこの範囲で運用知見を貯めていきます。機微情報を含む業務は、後段で設計を組み立てる前提でいったん保留します。
ステップ3: 候補業務に対し頻度 × 定型度のスコアを付け、合計が高い順に着手する。最初の1〜2業務で運用フロー(プロンプト管理・最終チェック・ログ保存)を確立してから、次の業務に広げていきます。一度に複数業務を AI 化しようとすると、運用ルールが固まる前に対象が増え、収拾がつかなくなります。
業務ヒアリングから AI 化対象を選ぶときは、「便利そう」という直感ではなく、頻度・定型度・守秘要件の3軸で機械的にスコア化していくほうが、最初の事故を回避しやすくなります。守秘要件は他の2軸とトレードオフしないという点だけは、特に意識しておきたい論点です。
参考
- 生成AIサービスの利用に関する注意喚起等について — 個人情報保護委員会 (2023-06-02)
- AI事業者ガイドライン関連 — 経済産業省 AI社会実装ワーキンググループ(参考リンク、本稿執筆時点で公開日の独立確認は未実施)
- DX動向 — 独立行政法人 情報処理推進機構 (IPA)(参考リンク、年次更新)