ある士業事務所の所長から、こんな相談を伺ったことがあります。ChatGPT も Copilot も契約済み、所長・幹部が触り始めて、スタッフへの展開も一段落した。導入そのものは終わった感触はあるけれど、次に何を見ればよいのかが見えない、というお話でした。
導入の段階を一通り通った事務所では、似た場面が出てきやすいようです。経営者・スタッフが業務の中で AI に触れる土台はできていて、そこから先で「日常業務に AI が混ざっている状態」に入ったときに何が起きるか、を先に見ておけるかどうかで、半年後・1 年後の事務所の姿が変わってくる、という話を耳にします。
本稿では、AI が業務に入ってきた後の事務所で見えてくる動きを、業務の流れ、事務所内の人の役割、顧問先との関係という 3 つの面から見ていきます。AI 関連の 100 記事シリーズで扱ってきた論点を、ひとつの場面にまとめる位置づけの記事です。
業務の流れを組み直す場面が出てきます
最初に出てきやすいのは、業務フロー自体を見直す場面です。
導入の初期は、これまでスタッフの方がやっていた作業の一部を AI に置き換える発想で進めることが多くなります。たとえば月次決算の下書きを AI に手伝ってもらう、議事録の文字起こしを任せる、といった形です。これは局所的な時間短縮にはなりやすいのですが、その前後のヒアリング・確認・顧問先報告の流れが変わらないと、空いた時間が雑務に吸われていく、という話もよく聞きます。
業務の流れを見直す場面では、いくつかのステップで進めている事務所があります。受任からヒアリング、書類作成、確認、提出、報告までの流れを、所要時間・担当者・判断ポイント・参照資料の単位で書き出していきます。書き出したタスクを「AI に下書きまで任せやすい」「AI に補助してもらい最終判断は人が行う」「人が引き続き担う」「そもそも止めてよい」のような形で振り分けます。最後に、振り分けの結果をもとに、業務の流れと役割分担、成果物の品質基準を組み直していく、という進め方です。
ここで難しいのが、技術的に自動化できる業務と、自動化してよい業務は別物だという点です。守秘義務・利益相反・業法の観点で人が判断する領域は残ります。境界をどこに置くかは、ツールの選定よりも前に、事務所の方針として決めておく場面が多くなります。詳しくは AI で効率化できる時間と、できない責任 や PoC が本番に行かない理由 も参照してください。
業務の流れの組み直しは、AI が業務に入って 3〜12 か月くらいで「気づいたら必要になっていた」と感じる事務所が多い領域です。導入の段階で「この先、流れの組み直しが来るかもしれない」と見ておくと、業務フローのドキュメント化や判断ポイントの言語化を、後から慌てずに進めやすくなります。
事務所内の人の役割が動いていきます
業務の流れを組み直すと、事務所内の「誰に何ができてほしいか」という人の役割の構成も動いていきます。
これまでの士業事務所では、申告書の下書き、議事録の文字起こし、契約書の初稿チェックといった定型業務を通して、若手の方が法令・実務・顧問先の癖を体得していく、という流れがあったように思います。一次の成果物を AI が出すようになると、若手の方の学習の積み上げ方を、別の形で設計する場面が出てきます。
現場で出てくる論点を並べてみます。
- 採用の場面で、AI の出力をレビューできる方を最初から採るか、ポテンシャル採用を続けて事務所内で育てる流れを残すか
- 育成の場面で、若手の方が「下書きを書く経験」をどう積むか。意図的に手作業で書く期間を設ける事務所もあれば、AI 出力の批評訓練を組み込む事務所もあります
- 所長や中堅の方が持つ「顧問先ごとの注意点・過去のトラブル事例」のような暗黙知を、AI が参照できる形に残せるか。残せないものは、誰が次の世代に伝えるか
- これまでチェック中心だったスタッフの方に、顧問先対応・コンサルティング寄りの仕事をどう任せていくか
IPA「DX 動向 2025」では、戦略・技術・人材の 3 視点で日本・海外企業の取り組みが継続調査されていて、関連ディスカッション・ペーパー「DX 動向 2025-AI 時代のデジタル人材育成」が公開されています [^ipa]。士業事務所でも、AI を入れること自体よりも、AI と一緒に働く人材像を定義し直して、育成・採用・継承の流れを組み直していく方が、長期で見たときの経営インパクトが大きい場面が出てきます。
人の役割の変化は、新人の方が入る、既存スタッフの方の役割が変わる、所長が引退の準備に入る、といった節目で表面化しやすい印象があります。
顧問先との関係を見直す場面が出てきます
業務の流れと人の役割が組み直されてくると、顧問先との関係そのものも、見直しの場面に入っていきます。
理由はいくつかあります。一つは、AI で効率が上がった分をそのまま値下げに回すと、価格競争に巻き込まれやすくなる点です。もう一つは、顧問先側でも AI を使い始める流れがあって、書類作成代行という形の相対的な価値が下がっていく場面が出てくる点です。さらに、顧問先の経営に近い領域、たとえば資金繰り・人材・許認可・契約・労務トラブル予防といった領域に踏み込むには、AI で生まれた時間を投資する余地が必要になります。
顧問先支援を高度化していく動きとして、現場でよく聞くものを挙げてみます。
- 税理士事務所で、月次試算表をベースに業績推移・資金繰り見通し・打ち手の優先順位を、経営者の方に伝わる言葉で示す動き
- 社労士事務所で、労務トラブルが起きる前に、就業規則・運用実態・労働時間のミスマッチを点検して、未然予防のレポートを出す動き
- 行政書士事務所で、許認可・契約・知財・補助金等を横断的に見て、事業のフェーズに応じた手続きロードマップを示す動き
- 弁護士事務所で、過去の係争・契約紛争を踏まえて、リスク予防の定例レビューを行う動き
もともと「やりたかったけれど、リソースが足りずに着手しきれなかった」サービスである場合も多いように見えます。AI による時間の捻出は、そのようなサービスを実装する前提条件として効いてくる、という見方もできます。詳しくは AI で顧問料はどう変わるか も参照してください。
顧問先との関係を見直す場面では、顧問契約書・サービス内容・料金体系・データ取扱い同意の見直しも一緒に出てきます。AI が業務に介在する場合は、いつ・どの範囲で・どう開示するかも論点になります。
3 つの面はどこから入ってもよく、並行で進むと摩擦が少ないようです
業務の流れ、人の役割、顧問先との関係。この 3 つの面は、必ずしも順番通りに進むものではありません。事務所の規模・既存の課題感・経営者の問題意識によって、入口は変わってきます。
ただ、現場の話を伺っていると、3 つのうちどれかだけを進めると、別の面で歪みが出やすい、という傾向があるようです。
| 先に進めた面 | 別の面を止めたときに出てきやすい場面 |
|---|---|
| 業務の流れだけ組み直す | 若手の方の育成が滞り、空いた時間が雑務に吸われ、結局は値下げ圧力に晒される場面が出てきます |
| 人の役割だけ動かす | 新しい役割を支える業務の流れが整わず、優秀な方が離れていく場面が出てきます |
| 顧問先支援の高度化だけ進める | 業務の基盤と担い手が伴わず、サービス品質が安定せず、顧問先からの信頼を損なう場面が出てきます |
3 つの面を少しずつ並行で進める形にすると、結果として摩擦が小さくなりやすい、という話を聞きます。導入の段階で「この 3 つの面が動いていくかもしれない」と見ておいて、業務フローのドキュメント化・判断基準の言語化・顧問先データの整理を並行で進めておくと、後の負荷が下がります。
そして、3 つの面を進めるときに切り離せないのが、セキュリティ・コンプライアンスの設計です。便利さを優先して職業倫理や規制に抵触すると、3 つの面どころか事務所の信用に影響します。現場で論点になりやすいものを並べておきます。
- 守秘義務の論点。弁護士法・税理士法・社労士法・行政書士法はいずれも守秘義務を置いていて、AI に顧問先の固有情報を入力する前に、入力範囲・保存期間・第三者提供の有無を契約レベルで確認しておく場面が多くなります
- 個人情報の入力の論点。個人情報保護委員会は 2023 年 6 月に注意喚起を出していて、生成 AI サービスへの個人情報入力にあたっては、利用目的の達成に必要な範囲かを事前に確認することが示されています [^ppc]。3 つの面のいずれを進める場面でも、前提として確認しておく論点になります
- 権限設計の論点。顧問先データへのアクセス権を、AI 経由でも一貫して制御できる仕組みになっているか
- 監査ログの論点。AI への入力プロンプト・生成結果・承認者の記録を、後から追跡できる状態にしているか(なぜ AI 利用ログを残すのか)
- モデル提供事業者との契約の論点。API 経由のデータが学習に使われない契約(オプトアウト・エンタープライズプラン等)になっているか
- 最終チェック責任の論点。AI の出力をそのまま顧問先に渡さず、誰がレビューするかを業務の流れに置いているか
国の側でも、AI を使う事業者向けのガイドライン整備が進んでいます(経産省・総務省「AI 事業者ガイドライン」が代表例です)。利用者側の責任の輪郭も並行して定義されつつあるので、運用の設計はガイドラインの動向を見ながら更新していく領域になります [^aiguideline]。3 つの面を一段進めるたびに、セキュリティ・コンプライアンスの観点を再点検する流れにしておくと、後で「気づいたら抜け落ちていた」場面を減らしやすくなります。
シリーズを通して見えてきたこと
3 つの面の見立てと、本シリーズ 100 記事を通して扱ってきた論点を重ね合わせて、いくつか書き残しておきます。
業務に AI が入ることは、ツールを 1 つ入れる話というよりも、業務・人・顧問先との関係が同時に動く話に近いようです。「ツールを入れる」という捉え方をしているか、「業務・人・顧問先との関係が動く」と捉えているかで、半年後の事務所の見え方が変わってくる、と話してくれた所長の方もいらっしゃいました。
3 つの面のうちどれか 1 つに偏ると、別の面で歪みが出やすいので、少しずつ並行で進める設計のほうが、結果として摩擦が小さい場面が多いようです。導入の段階で並行を見越しておくと、後段の負荷が下がります。
「AI で空いた時間で何をするか」を、所長と幹部の間で先に言葉にしておくと、空いた時間が雑務に吸われる場面を減らしやすくなります。顧問先支援の高度化に時間を投資する方針を、最初の段階で決めておく形を取っている事務所もあります。
セキュリティ・コンプライアンスは、3 つの面のどこかでまとめて点検するというよりも、各面の節目で再点検する流れに置いておくと、業務・人の動きのスピードに対して守秘義務・個人情報保護の運用が追いつかなくなる場面を減らしやすくなります。
「導入したかどうか」よりも、「導入後の 3 つの面を自事務所としてどう設計しているか」のほうが、これからの数年間で見えやすくなる軸かもしれません。本シリーズで扱ってきたテーマを束ねる場所として、ここに置いておきます。
どの面から着手するかは、事務所の現状と所長の問題意識によって変わってきます。本稿はその判断材料を並べる位置づけで、固定の順序を示すものではありません。