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2026 / 06 / 11 事例

代表だけがAIを使っても定着しない理由

Lead

代表だけがChatGPTを使い倒してもスタッフに浸透しない構造を、責任所在・判断基準・評価軸・共有不在の4観点と、巻き込み3ステップ・KPI設計で整理します。

ある士業事務所の所長から、こんな話を伺ったことがあります。「自分は ChatGPT を毎日使っていて、起案・要約・調査の壁打ちで明らかに早くなりました。なのにスタッフは誰も使ってくれません。研修の案内も出しましたし、有償アカウントも配ったのですが、3 か月経っても使っているのは自分だけです」。同じような相談は、近頃よく耳にするようになりました。

特殊な事例というよりは、典型的に見える場面です。代表の方は「AI で業務が変わる」という実感をお持ちなのに、現場には浸透しないという形になります。気付けば、代表の方の頭の中だけで AI を使う流れが閉じてしまい、退職や代替わりが起きた瞬間に事務所からノウハウが消える、という構造になりやすいようです。

本稿では、なぜ代表の方お一人だと AI が事務所に定着しにくいのか、スタッフの方を巻き込むときに踏まれている工程、セキュリティ・コンプライアンス上の論点を、いくつかの事例を踏まえてご紹介します。

代表だけだと止まりやすい場面

代表の方お一人が AI を使い続けている状態には、いくつかの共通した形があるようです。

代表の方は「失敗してもよい立場」だが、スタッフの方はそうではない

代表の方が AI で起案した文書に誤りがあっても、最終的に責任を取るのは代表の方ご自身です。一方、スタッフの方が AI で起案した文書に誤りがあった場合、「なぜ AI を使ったのか」と所内で問われる構造になりやすい場面があります。失敗時の責任所在が曖昧なまま「使っていいよ」と言われても、現場の方は手を伸ばしにくくなります。

「どこまで入れていいか」の判断基準が共有されていない

代表の方は守秘義務・個人情報保護法・各士業法の規律を踏まえて「これは入れていい / だめ」を瞬時に判断されています。しかしスタッフの方から見ると、その判断基準は明文化されていないことが多く、「とりあえず触らない」が安全な選択になります。

評価軸が見えていない

スタッフの方の視点で見ると、AI を使って業務時間が短くなっても、評価制度上の見返りが見えにくい場合があります。「サボっているのでは」と見られることを気にされる方もいらっしゃいます。代表の方が「使ってほしい」とおっしゃるだけでは、現場の動機設計が変わらない場面が出てきます。

共有の場が無い

代表の方が AI でうまくいったプロンプトや使い方を、所内で共有する仕組みが無い場合、ノウハウは代表の方の頭の中に閉じます。スタッフの方は「代表は何かをやっている」と感じつつ、自分が真似できる手順が見えないため、自分の業務には適用しにくい状態になります。

IPA「DX動向2024」(2024 年 6 月 27 日公表)でも、DX 推進の阻害要因として「人材の過不足」「企業文化・風土」が上位に挙げられています。AI を業務に組み込む話も同じ構造のようで、ツールを配るだけでは現場の流れが変わりにくい場面があります。

スタッフの方を巻き込んでいく工程

「使ってほしい」と一方的に伝えるよりも、現場の方が自然に手を伸ばせる状態を作っていく方が現実的なようです。事務所の事例を伺っていると、次のような工程が機能しやすいように見えます。

小さく試す業務を所内で 1〜2 個に絞る

いきなり「業務全般で使っていい」と言われると、現場の方は何から手を付けるか迷われます。代表の方がご自身で試して効果が出た業務(議事録要約、相談メールの下書き、調査の壁打ち等)を 1〜2 個に絞り、「この業務に限り、この手順で試してみる」というスコープに区切ると、入口がはっきりします。

スコープを区切ると、入力するデータの種別も限定されるため、後段のルール作りも進めやすくなります。

スタッフの方の困りごとから逆算する

代表の方の視点ではなく、スタッフの方の困りごとから逆算する進め方もあります。事務所内で「業務で時間を取られているもの」を 3〜5 個ヒアリングし、その中で AI に手伝ってもらえそうなものを一緒に選ぶ流れです。代表の方が便利だと感じる業務と、スタッフの方が時間を取られている業務は、ずれることがよくあります。

スタッフの方ご自身が選ばれた業務であれば、当事者意識が生まれて、定着もしやすくなる傾向があります。

早期に「うまくいった事例」を見える化する

最初に取り組んだ業務で何らかの成果(時短、精度向上、心理的負担の軽減等)が出たら、所内のミーティングや簡易レポートで共有しておきます。「○○さんが議事録要約で 30 分浮かせた」「△△さんが相談メール下書きで初稿を 10 分で作れた」といった具体例があると、他のスタッフの方も試してみようと動きやすくなります。

逆に、最初の事例が出ないまま 3 か月が経つと、所内で「結局 AI って使えないよね」という空気が固まってしまうことがあります。最初の 1〜2 件は代表の方が伴走される事務所もあります。

ルールと指標を所内に置く

スタッフの方が触り始められた段階で、「どこまでやっていいか」のルールと、「使った結果がどうだったか」を測る指標を所内に置いておくと、後の運用が落ち着きやすくなります。

ルールは 1 ページから始める

ここでのルールは、利用ガイドラインのような大規模文書ではなく、最初は「最低限の禁則と推奨」を 1 ページにまとめる形でも機能します。

  • 入力していいデータ / だめなデータの種別
  • 利用していいツール名・アカウント(事務所契約のみ可、個人アカウント禁止 等)
  • 出力をそのまま顧問先に渡さない(必ず有資格者・レビュアーが確認する)
  • チャット履歴の保持・取り出し方法
  • 困ったとき・事故時の連絡先

詳細な所内ルールの構成は別記事「生成 AI 利用ルールを所内で作る方法」でご紹介しています。本稿の段階では、まず 1 ページの簡易版から始めるという選択肢もあります。

指標は複数を組み合わせる

「使っているかどうか」だけを指標にすると、形式的に使った記録だけが増えて中身が伴わない場面が出てきます。次のような指標を組み合わせている事務所もあります。

  • 業務時間の変化(対象業務に費やしている時間が前月比でどう変わったか)
  • 品質の変化(レビュアーが指摘する誤りの種類・件数がどう変わったか)
  • 利用人数 / 活用業務数(何人が、いくつの業務で AI を使っているか)
  • ヒヤリハット件数(「入れてはいけないものを入れかけた」事案の発生数)

特にヒヤリハット件数は、後段のセキュリティ・コンプラ観点で意味を持ちます。「ゼロが理想」というよりは、「気付いて報告された件数が多いほど健全」と読まれている事務所もあります。

共有・教育の場を所内に置いておく

代表の方の頭の中にあるノウハウを、現場に流す仕組みが無いと、スタッフの方は追いつきにくくなります。共有・教育の場を所内に置いておくと、定着の流れができやすくなります。

プロンプト・事例集を所内で蓄積する

代表の方とスタッフの方がそれぞれ試したプロンプトや、うまくいった事例 / うまくいかなかった事例を、所内の共有ストレージや wiki に蓄積していく事務所もあります。形式は問わないようですが、「業務名 / 試したプロンプト / 結果 / 振り返り」の 4 項目があると、後から参照しやすくなります。

週次か月次の「AI 振り返り会」を 15 分でも置く

会議体を新設するのが難しい場合は、既存の所内ミーティングに 15 分枠を追加するだけでも機能します。「今週試したこと」「うまくいったこと」「困ったこと」を回していくと、ノウハウが代表の方から現場に、そして現場同士で横に流れていきます。

新人オンボーディングに AI 研修を組み込む

新規入所者の方に対して、「事務所として AI をどう使っているか」「どこまで入れていいか」を最初にお伝えする枠を作る方法もあります。後から追加で教育するより、入口で揃えるほうが定着しやすいという声を伺います。

外部研修・有資格者向けのセミナー情報を流す

所属会・連合会主催の研修や、他事務所の事例公開セミナーがあれば、スタッフの方に参加機会をご案内する事務所もあります。外から学ぶ体験は、所内だけでは得にくい視点をもたらすことがあります。

セキュリティ・コンプライアンスの論点を並走させる

定着の話だけを優先すると、リスク管理が後追いになりやすい場面があります。スタッフの方の巻き込みと同時並行で、最低限の論点を並走させておく形が現実的なようです。

個人情報保護委員会は 2023 年 6 月 2 日付で「生成 AI サービスの利用に関する注意喚起等について」を公表していて、個人情報取扱事業者・行政機関・利用者個人それぞれに向けた留意点を示しています。士業事務所はほぼ全てが個人情報取扱事業者に該当するため、要配慮個人情報の取得、利用目的の範囲、第三者提供への該当性などが直接関わってきます。

経済産業省・総務省が公表されている「AI 事業者ガイドライン」も、AI 開発者・AI 提供者・AI 利用者という 3 つの立場ごとに留意点を整理しています。士業事務所は「AI 利用者」として該当する論点を確認する形になります。

スタッフの方を巻き込む段階で見ている論点としては、次のようなものがあります。

  • アカウント設計(代表の方の個人アカウントを共有せず、スタッフの方には個人特定可能なアカウントを発行して MFA を必須化する)
  • 学習オプトアウト・データ保持設定(事務所契約のテナントで、学習オプトアウト・データ保持期間の設定が済んでいるかを確認する)
  • 入力データの最小化(スコープを絞った業務で、必要最小限のデータだけを入力する流れを所内で共有する)
  • ログ取得(「いつ・誰が・何を入力したか」を後から再現できるよう、チャット履歴のエクスポート手順を決めておく)
  • 退職時の手順(アカウント回収・チャット履歴の保管 / 削除方針を、入所時の規程に書いておく)

「定着が進んでから対応すればよい」と考えやすい領域ですが、想定外の挙動が起きてから整備しようとすると、顧問先への説明が難しくなる場面が出てきます。

このケースで見えてきたこと

代表の方だけが AI を使い続けている状態を続けていると、事務所としては AI が業務に組み込まれているとは言いにくく、代表の方が抜けた瞬間にノウハウが消えやすい構造のまま時間が経ってしまいます。事務所の事例を伺っていると、次のような形が見えてきます。

  • スタッフの方が動かれないのは、責任所在・判断基準・評価軸・共有の場が整っていないという背景があるようです
  • 巻き込みは「スコープを絞って試す → ルールと指標を所内に置く → 共有・教育の場を設計する」の順で進めると詰まりにくい場面があります
  • ヒヤリハット件数を「悪い指標」ではなく「気付かれた件数」として読むと、ルール改訂のサイクルが回りやすくなります
  • 代表の方お一人の生産性は、事務所全体の生産性とは別の話として扱う事務所もあります

責任所在・判断基準・評価軸・共有の場を同時に整えていくところに、属人化を解いていく入口があるようです。スタッフの方が触れる業務を 1〜2 個に絞り、指標と共有導線をセットで置いておく、というところから始めている事務所もあります。

参考

Author · 著者

三方 浩允

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